【大阪】聖徳太子に仕えた三人の侍女が開いた、西方院。聖徳太子の遺髪が納められている!(太子町・御朱印)
大阪の太子町にある、西方院を参拝しました(2021年5月)。
太子町と言えば、あの聖徳太子のお墓がある町です。聖徳太子御廟のある叡福寺には昨年10月に訪れていて、その時に西方院も参拝したのだけれど、その時は御朱印がいただけず。今回、聖徳太子1400年御遠忌ということで、叡福寺と西方院へ再び訪れました。
叡福寺の道を挟んで向かい側にあります。
前回の叡福寺訪問記↓
↑雰囲気のある石段を上っていきます。ここから見る景色が好き。
↑境内の外から。鐘楼が目立っています。
↑山門。浄土宗のお寺で、新西国霊場第8番札所にもなっています。他に、聖徳太子御遺跡第33番、河内西国霊場第3番。
↑西方院は、622年(推古天皇30年)に創建されたとされる、非常に古い歴史を持つお寺です。開基1400年、聖徳太子が亡くなった年に開かれたのですね。
ここは、三尼公のお寺、とも言われています。
三尼公とは、聖徳太子の三人の侍女、月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)のこと。…って、三人の侍女の家柄もすごくないですか!聖徳太子に仕えるとなれば、仕える人の身分も高かったのですね。
聖徳太子が死去した後に三人は出家し、聖徳太子の御廟がある叡福寺の門前にこのお寺を創建し、聖徳太子作(!)の阿弥陀如来像を祀り、聖徳太子の遺髪を納めたと言われています。素晴らしいご由緒だなぁ、震えます(笑)。
推古天皇の30年(西暦622年)に聖徳太子御薨去のあと、
月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)三姫は剃髪され、その名も善信・禅蔵・恵善と称されて、太子御廟の前に一宇を建立して、
太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置して、ひたすら弥陀の西方浄土を欣求されたとつたえられております。(西方院HP「» 西方院縁起 | 南向山 西方院」より)
↑1639年(寛永16年)に再建された本堂。結縁南無佛太子像にも、置いてあった鐘を鳴らしてご挨拶、ご縁を結ばせていただきましたm(__)m
本堂に上がり、中で落ち着いた気持ちで参拝させてもらいました。御朱印も本堂内でいただけます。
↑本堂前にある、納骨堂。こちらになんと、聖徳太子の遺髪が納められているというのです!もちろん見ることはできませんが、ここにあの聖徳太子の遺髪が!?と思うと、なんだかゾクゾクするロマンを感じます(笑)。叡福寺で聖徳太子御廟を目の前にした時も、同じように何とも言い難い感動のようなものを覚えたのでした。
聖徳太子とのご縁を結ぶため、宗派を問わず各地から遺髪や遺骨が納められるそうです。
↑内部から見た鐘楼。
境内はこぢんまりとしていますが、綺麗に整備されていて、とても気持ちが良いです。
境内の外に、三尼公御廟所があります。
↑こちら。扉は開かれていませんでしたが、中には三基の多層塔があります。
↑石段を上り振り返ると、向かいの叡福寺が見えます。西方院から見る叡福寺、叡福寺から見る西方院。どちらの画も好き。
本堂内で御朱印をいただきました。
↑右が御本尊の阿弥陀如来。左上に開基1400年の印が押されており、三尼公のお顔が( ´艸`)今年いっぱいの印かな?左下には聖徳太子のお顔も♡左は聖徳太子御遺跡の御朱印です。
↑こちらは、開基1400年の今年(2021年)いっぱい限定で授与されている、見開き御朱印。南無佛太子です。
奥様にご丁寧に対応いただき、ありがとうございましたm(__)m
↑石段の下、道路沿いに立つ隔夜堂です。石仏の如来坐像と地蔵菩薩像が祀られています。
↑太子くん、交通安全にも貢献してくれています(笑)。前回来た時も思いましたが、やはり太子町は聖徳太子愛にあふれていますね。
↑マンホールも。和を以て貴しとなす、カッコいいです。
↑叡福寺の裏にある、太子・和みの広場。たいしくん、可愛すぎませんか(笑)。子供連れのファミリーがたくさん、広場で遊んでいました。
叡福寺と西方院、そしてその周辺の雰囲気がとても気に入っています。またぜひ、聖徳太子愛を感じに訪れたいです(笑)。
西方院